セブの夜ふけに暇つぶし

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フィリピン貧困の連鎖 シリーズ3

アジアには、フィリピンよりも貧しい国がいくつもあります, カンボジアやミャンマー、ラオスの貧困の度合いは、フィリピンを上回っています。
成人1人あたりの平均純資産額を比べても、フィリピンの9,773ドル(およそ107万円)に対して、ラオス5,662ドル(およそ62万円)、カンボジア3,881ドル(およそ42万円)、ミャンマーは1,831ドル(およそ20万円)に過ぎません。

ことに、カンボジアやミャンマーでは、命に関わるほどの貧困を極めた人々がフィリピン以上に多数います。

それでもカンボジアやミャンマーには、まだ救いの光明を見出せます, 経済発展が足りていないために国民が貧しい場合は、国全体の経済を成長させることで、やがては貧困から抜け出せる目処が立つからです。経済が発展するにともない、国民の暮らしぶりも改善されます。

ところが、フィリピンは違います。現に「アジアの病人」と言われていた頃よりも、今は経済がはるかに好転したにもかかわらず、貧富の格差はさほど改善されていません。
これからさらにフィリピン経済が成長を遂げても、貧富の格差が解消されない可能性の方が高いと予測できます。

なぜなら、経済成長によってフィリピンという国がどれだけ豊かになっても、その富のほとんどを富裕層に吸い上げられるという現実があるからです。

2010年から2011年の1年間にフィリピンの富豪上位40名の資産は、130億ドル(およそ 1.4兆円)上昇しました, 一方、この1年間にフィリピンのGDPは、170億ドル(およそ1.8兆円)上昇しました。
GDPの上昇額は、国内全体の収入上昇額を表しています, ということは、フィリピンの富豪上位40名の資産上昇額は、国内全体の収入上昇額の実に76.5%を占めることになります。
これは明らかに異常な数字です, 経済成長によって得られた富の8割近くを、富豪上位40名が独占し、一般国民にはほとんど還元されなかったことになります。

ちなみに、同年度の日本の富裕層40人の富は、国内全体の収入上昇額のわずか2.8%に過ぎません。マレーシアは3.7%、タイは33.7%です。比較してみると、フィリピンの76.5%という数字が、いかに異常なものであるかが浮かび上がってきます。


経済成長に身を任しているだけでは、貧困の格差を解消できないことは明らかです。
富裕層に集中している富の分配を是正して、国民の大多数を占める貧しい人々にも富が行き渡るように変えていかなければ、いつまで経ってもフィリピンの貧困の格差は解消されません,。
フィリピンには、貧富の格差が生まれる構造がガッチリと組み込まれています、こうした貧富の格差が生まれる構造そのものを変えていかなければ、少数の富裕層が大多数の貧困層を搾取する今の状態は永遠に変わりません。


貧困の連鎖とは、どういうことか?
「貧困の連鎖」とは親から子へと、貧困にあえぐ状況がそのまま受け継がれることを意味しています。
フィリピンという国は一つでも、少数の富裕層と大多数の貧困層が暮らす世界は、まったくの別世界です、二つの世界が混じり合うこともなければ、富裕層が貧困層に没落したり、貧困層が富裕層の仲間入りを果たすことも、まずあり得ません。


なかにはボクシングのマニー・パッキャオ氏のように、貧困層の最底辺から富裕層のてっぺんにまで駆け上がった人物もいますが、それは例外中の例外であり、奇跡の物語に過ぎません, 一般の人々には、いつまで待っても奇跡は訪れません。
多くの富裕層は、小高い丘の上にある高級ヴィレッジにある豪邸に住み、運転手や女中などの使用人を何人も抱えています。

雑事のすべては使用人が済ませてくれるため、彼らはめったに街中に出てくることもありません, たまに高級ホテルのレストランで知人と会食したり、ビジネス上の特別なイベントに出席する程度です。


一方、貧困層の人々の暮らしぶりは悲惨です! 最貧困層ともなるとゴミ山に囲まれたスラムに掘っ立て小屋を建て、食べ物を口にできるかどうかわからない毎日を過ごしています, 彼らにとっては、生きるために毎日の食をつなぐことが人生の最大の目標です。

富裕層は生涯、日本人では想像できないほどの贅沢な暮らしを堪能し、貧困層はどれだけあがいても一生を貧困のうちに閉じます, フィリピンでは富裕層と貧困層のどちらに属する親の元に生まれるかで、一生が決まります。


努力のいかんに関わらず、生まれた時点で生涯が決まるため、そこには夢も希望もありません。


ゴミ山に生まれた人間の悲しい一生涯
具体的な一例をあげます, たとえば、ゴミに囲まれたスラムに生まれたとしましょう 
順調に成長し、晴れて小学校に入学することができました。
しかし、学年が進むにつれ、食べられるものを口にできない日々が増えていきます, 弟や妹が生まれたことで、生活費が余分にかかるようになったためです。

小学校へ通うにもお金がかかります, 勿論、フィリピンにも義務教育の制度はあるため、公立校であれば授業料は無料です。
しかし、学校は徒歩圏内にないことが多く、ジプニーやバスなどの交通機関を利用するケースがほとんどです、そのため、交通費と昼食代がかかってきます。制服も自分で揃えなければいけません。
毎日の食費にも事欠くようになり、両親は苦渋の決断をします、小学校に通わせる余裕は、もうありません。

仕方なく小学校に通うことをあきらめ、翌日からは母親の仕事を手伝うことになります
母親の仕事は、ゴミのなかから換金できるモノを拾い集めるスカベンジャーです。

母親からゴミの分別や金目のものを見つける技術を習い、子供ながらにスカベンジャーとして家計を支える働き手の一人になりました、まだ幼い弟や妹を背負い、子守をしながら毎日毎日ゴミ拾いを繰り返す日々が続きます。

ペットボトルは 1キロ25円、空き缶は1キロ30円、プラスチックは1キロ10円ほどです。頑張れば1週間で、2,500円ほどの収入を得られます、1ヶ月で1万円ほどです、でも
どれだけ頑張ってもそれ以上に稼ぐことは無理です。


その日に家族が食べていける食費を稼ぐことだけを目的にゴミ拾いを続けます、今日食べることが精一杯で、将来を考える余裕などありません。
それに、考えたところでどうにもなりません、ゴミ拾いにかけてはプロフェッショナルになりましたが、それ以外のことはなにも知らないからです。

母親と同じ仕事に就くことしか、選択肢はありませんでした。
それは、これから先も同じです、ゴミ拾いとしての知識と経験しかありません、それ以外の仕事に就くチャンスも知識も、ありません。

もし女の子であれば、早ければ13歳ぐらいで身ごもります、フィリピンでは中絶が法律で禁止されているため、身ごもった以上は産むよりありません。


子供が生まれても、毎日は変わりません、狭苦しい掘っ立て小屋の中で大家族といっしょに暮らしています、家族が多いため子育ては助けてもらえますが、毎日の食費を稼ぐためにゴミ拾いをする日々には何も変わりありません。


やがてその子供が成長して小学校に上がりますが、苦しい生活のなか、母親同様に小学校を中退して、仕事を手伝うことになります。
スカベンジャーとしての仕事を子供に教えていきます。母親として教えることができる
知識はそれしかないのだから、他に選択肢はありません。

こうして貧困の連鎖が親から子へと、永遠に続いていくことになるのです。
「貧困」とはお金がないことに加えて、あらゆるチャンスがないことも意味しています。

教育を受ける機会を奪われるため、貧困層の子供たちは社会を知りません、そのため、黙って親の仕事を受け継ぐことしかできません、ゴミ拾いの子はゴミ拾いに、物売りの子は物売りに、物乞いの子は物乞いになるだけです、他の道を選ぶ機会は、ほとんどありません。

フィリピンでは男性よりも女性が働くことが一般的なため、たいていの子は母親と同じ仕事に就きます、祖母も母親も同じ仕事に就くことが普通です、そして、その子供も又、
同じ道をたどります。
そこに待っているのは、抗うことのできない貧困の日々です、祖母から母へ、母から子へと、その日に食べられるものを口にできるかどうかわからない毎日が受け継がれます。

ときには食料を買うお金が尽き、何も口にできないまま空腹に絶えるよりない日もあります、お腹が空いたと泣く子を、なだめなければいけない日もあるでしょう。

それでも、この貧困から抜け出す道はどこにもありません、最貧困層には「選ぶ」という贅沢は許されていません、常にひとつの道だけしかなく、それは確実にさらなる貧困へとストレートにつながっています。


それが、救いようのない貧困の連鎖の実態です。
いったい、なぜフィリピンは貧困が連鎖するような社会になってしまったのでしょうか?

「俺のセブ留学記事」を引用しました。


                                 つづく

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