セブの夜ふけに暇つぶし

セブでのお気楽な生活を独断と偏見に満ち溢れて綴っていきます

フィリピン人の「許し」の精神・続編

平成28年1月26日(火)
フィリピンご訪問ご出発に当たっての天皇陛下のおことば(東京国際空港)

この度,フィリピン国大統領閣下からの御招待により,皇后と共に,同国を訪問いたします。
私どもは,ガルシア大統領が国賓として日本を御訪問になったことに対する答訪として,昭和37年,昭和天皇の名代として,フィリピンを訪問いたしました。それから54年,日・フィリピン国交正常化60周年に当たり,皇后と共に再び同国を訪れることをうれしく,感慨深く思っております。
フィリピンでは,先の戦争において,フィリピン人,米国人,日本人の多くの命が失われました。中でもマニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました。私どもはこのことを常に心に置き,この度の訪問を果たしていきたいと思っています。
旅の終わりには,ルソン島東部のカリラヤの地で,フィリピン各地で戦没した私どもの同胞の霊を弔う碑に詣でます。
この度の訪問が,両国の相互理解と友好関係の更なる増進に資するよう深く願っております。
終わりに内閣総理大臣始め,この訪問に心を寄せられた多くの人々に深く感謝いたします。



キリノ大統領とは、第6代フィリピン共和国大統領
1948年、マニュエル・ロハスが現職大統領のまま亡くなったため、キリノ氏は2日後の4月17日に大統領に就任した。翌年行われた選挙で、キリノは自由党の候補者として大統領選挙に出馬し、国民党のホセ・ラウレルを破って当選を果たした。前述のとおりキリノ氏は既に妻を亡くしていたため、娘のビクトリアがファーストレディとしての役割を担った。



彼は大統領就任後、1953年7月、いまだ反日感情の根強い中、あの有名なモンテンルパン刑務所に収容されていた旧日本軍高級将校の戦犯105人に恩赦令を出し、帰国を許した。
当然比国民は猛反発し反政府運動も活発化し、彼の残された家族からも「母親と兄弟を殺した旧日本軍兵士を何故許したのか」と叱責されたことは当然で有りましょう。


そんな中、キリノ大統領は自国民や家族に向かって「日本は極めて近い将来戦後復興を成し遂げ我が国の最も重要なパートナーとなる、その為にも日本の若者達を一日も早く帰国させなければならない」と訴えたので有りますが、マダマダ根強い反日感情を持った国民には到底理解されず、1953年、キリノ大統領は病気を押して大統領選挙に出馬。再選を狙ったがラモン・マグサイサイに大差で敗れ、その後は政界を退きケソンで暮らした。1956年2月29日に心臓発作で死去した。
                             
                                   続く









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