セブの夜ふけに暇つぶし

セブでのお気楽な生活を独断と偏見に満ち溢れて綴っていきます

変わりゆく在日フィリピン人たち その5

パブ勤めから介護職へ、変わりゆく在日フィリピン人たち


夫とともに、日本のお墓に入りたい
ビザに翻弄されるだけではなく、バブルは遠い夢となり、日本の景気低迷は長引く。いまや飲み代を全盛期よりもだいぶ安く設定している店が多いのだとか。コロナ禍で大打撃を受けたこともあり、栄の灯も減った。やがて夜の街を離れて生きていく人も多くなった。


偽装ではなく本当に結婚して、日本の家族の中に入っていく人もたくさんいる。「人並みの」苦労もあるようだ。
「ダンナの親と15年も暮らしてたんだから、いろいろあったよ。うちの子はこんなの食べないんだから(料理に)入れちゃダメよとか言われて。まあ最後は、息子が選んだ人だからって認めてくれたけどね」(ネリーサさん)


ベリンダさんは介護だけでなくエステの仕事も営むが、そのために学校にも通ったという。それもなんと、長女と一緒に机を並べてだ。
「先生は信じなかったけどね、姉妹じゃないのって」


なんておどけるが、その長女は母親とは別の店でエステティシャンとしてがんばっている。長女も次女も、日本の文化の中で日本語をベースに育ってきた。世代を重ねると、その国に溶け込み同化していくのは移民の宿命だ。


「でも、できるだけフィリピンの文化も知ってほしい。マノポ(年長者の手の甲をとって自分の額にあてる。目上の人に敬意を示す行為)を大切にしてほしいし、子どものころから『これは愛情表現なんだよ』ってハグやキスもしてきたの」


ネリーサさんのふたりの子どもも社会人として働き、長男はサッカーチームのコーチもしているそうだ。バブルの頃にやってきたフィリピン人たちはもう2世3世の時代になっている。そして親たちはまだまだ働くのだと、介護だけでなく工場などでも汗を流す。

(愛知県では技能実習生や留学生のフィリピン人も増えている。彼らに「〝センパイ〟としてアドバイスすることもあるよ」とベリンダさん)


フィリピンでは家族のために家を建てた。あとは日本で老い、果てていきたいとネリーサさんは言う


ネリーサさんは食品加工の工場でも働いているし、ベリンダさんは自動車部品の検査の仕事をしていた時期もある。また愛知県各地に点在するフィリピン料理店や食材店には、タガログ語の求人案内がいくつも貼られていて、工場、介護のほか清掃、ベッドメイキング、厨房といった職種が並び、どんな仕事で外国人労働者が求められているのかが見えてくる。


働くだけではなく「PTAの活動や、教会の清掃とかバザーに参加するフィリピン人もいます」と中島さんは言う。


(フィリピンでは家族のために家を建てた。あとは日本で老い、果てていきたいとネリーサさんは言う)


そして古株のネリーサさんたちは、人生の行く末を見つめる齢(よわい)になった。老後について尋ねると、「子どもには自分の面倒を見させたくない」と意外なことを話す。
「やっぱり自分が親になったらね、子どもに苦労させたくないって思うのよ。子どもの幸せを奪ってるだけじゃんって」


そう答えるネリーサさんは、夫と入る墓の土地を日本で買ったそうだ。ベリンダさんも老後は夫の故郷の沖縄で暮らしたいという。異国で働き、そして異国で人生をまっとうしてい
く。


                                最終回へつづく

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