セブの夜ふけに暇つぶし

セブでのお気楽な生活を独断と偏見に満ち溢れて綴っていきます

変わりゆく在日フィリピン人たち その2

パブ勤めから介護職へ、変わりゆく在日フィリピン人たち


ベリンダさんは言う。
「私だけフィリピン人だからこそ、みんなと同じようにしないとって。書くのは遅いんだけどね」

(名古屋・栄にあるフィリピン料理店にて。フィリピンの家庭料理が並ぶ)


「カラオケの字幕は漢字を読む練習になるよね」
なんてネリーサさんも返すが、ふたりともどうして介護だったのだろう。よく、「フィリピン人はホスピタリティーが豊か」と言われたりもする。ベリンダさんが説明してくれた。


「フィリピンでは、お年寄りは家族みんなで面倒をみるの。私のおばあちゃんも歩けなくなったとき、家族が順番にお風呂に入れたり、ご飯を食べさせたりしてね」
大家族の中で高齢者のケアをすることは当たり前で、介護にも慣れているのだという。フィリピンの文化に日本人が救われているわけだが、そのホスピタリティーゆえに彼女たちは苦労を重ねてきた。


バブルが弾けた後、むしろフィリピンパブはにぎわった

(栄周辺にあるフィリピンパブは100軒ほどといわれる。それでも全盛期の2000年代前半に比べると激減した)


当初は東京・新宿にいたが、93年に愛知県名古屋市の歓楽街、栄にやってきた。すでにバブルは崩壊していたが、フィリピンパブの業界は、
「この頃がいちばん良かったかもしれないね」とネリーサさんは振り返る。


というのも、バブルが弾けてなお、泡沫の夢が忘れられず遊びたい男たちはいるわけで、しかし会社の経費はもはや使えないから、飲み代の安いフィリピンパブに流れてくるのだ。



それだけではない。フィリピン人たちの陽気さに、バブルの夢破れた男たちは励まされ、癒やされたのだろう。南国の気質なのか、妙に距離感が近く仕事とプライベートの境界もあいまいで、なんだか友達のように接してくれる彼女たちに、日本のおじさんたちは甘えたのだ。


ネリーサさんが故郷のマニラ首都圏ケソンシティから日本に来たのは35年前。生活の苦しい家族を助けるためだった。


時あたかもバブル絶頂期の1989年。フィリピンパブも好景気で、店の前に行列ができることもあれば、店で盛大な忘年会を開く会社まであったそうで、ネリーサさんも「深夜までのシフトが終わったら別の店に呼ばれて朝まで仕事して」と、ホステスが足りないほどの活況だった。


                              その3へつづく

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