セブ・コルドバの夜は更けて

「木曜会」のご案内 ・約6年前よりマクタ島に住む日本人を中心に毎週木曜日午後1時から行われております情報交換会です。会場の詳細案内は’17年9月11日の記事を参照下さい。

セブ戦没者慰霊祭

日本では本日、終戦記念日ですがセブでは戦没者慰霊祭がセブ日本人会主催のもとに
ラホッグのマルコポーロプラザホテル敷地内に建立されております、セブ観音慰霊碑前で
約120名の方々が参列され粛々と戦没者を偲びご焼香と献花をさせて頂きました。

フィリピン全土では戦時中、日本人は民間人を含め約52万人の尊い命が犠牲となりましたが、この戦争に巻き込まれたフィリピン人は当時の国内総人口約1,300万人の内100万人以上が犠牲となり亡くなられたそうです、何と総人口の内約一割近い人々が亡くなった事実を知り大変驚きました。


当時、アメリカ軍は、マーシャル諸島からサイパン、硫黄島、沖縄そして日本本土へと反攻作戦を計画しフィリピンやインドシナ半島等から日本本土への物資補給を断つ計画でしたが、太平洋戦争勃発当初フィリピン方面最高司令官であったマッカーサー元帥は日本軍の山下将軍にコテンパンに打ちのめされフィリピンをたたき出された私怨で、アメリカ軍の作戦に逆らって、フィリピン侵攻を企てあの有名な「I shall return」の言葉を残し徹底的な無差別攻撃を敢行した為、海外戦地としては最大の激戦地となり多くの日本人やフィリピン人が犠牲になったのが事実です。

レイテ沖海戦ではレーダー探知機の技術開発の遅れが致命的となり帝国海軍連合艦隊は
戦艦武蔵を始め壊滅状態となり、レイテやセブに駐屯していた日本軍は補給路を断たれ
フィリピン人ゲリラ部隊や後方支援していたアメリカ軍に悩ませられながら抗戦を続けていたのですが、遂にマッカーサー元帥を先頭にアメリカ軍主力部隊のフィリピン上陸となり、日本軍の敗走は悲惨を極め、特にレイテに駐屯していた日本兵はセブ島に敗走して来る間に全員30Kg台に体重が落ち、痩せ細っていたそうです。


この灼熱地獄の中、ジャングル地帯を歩き回っている間にゲリラに襲われ或いは疫病や下痢で95%の日本軍兵士が此の地で亡くなっているのが悲惨な事実で有ります。


マルコポーロプラザホテルはラホック地区に所在し直ぐ近くには日本海軍飛行場(現在のITパーク)が有り、最盛期は約100機のゼロ戦が駐機していたそうです。


靖国神社の記録では、ルソン島のクラーク飛行場から神風特攻隊が初めて飛び立ったと記録されていますが、実はその二か月前にこのラホック飛行場から3機のゼロ戦が神風特攻隊として最初に飛び立ったのですが、正式な記録としては残されていないそうです。



                                 つづく


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